2014年12月26日金曜日

写真はアートなのか

私、アートって言葉が嫌いです。
具体的には、美術・芸術をアートと呼ぶのが嫌いです。
アート引越センターとかじゃなくて。
なんでこんなことを書こうと思ったかというと、こんな記事を見たから。

20141225
”えげつない写真”をアートと言い張る大橋仁氏に時代錯誤を感じる、というお話


大橋仁という写真家のインタビュー記事からの派生です。
男女300人の絡みを撮影...知性と理性を吹っ飛ばせて見えた境地とは【大橋仁 INTERVIEW】
そのインタビュー記事というのがこれです。

twitterで大橋仁を検索すると色々出てくるのですが、勘違いしている人が多い。
色々見ていると勘違いには
・タイで撮影した写真が写真集になっている(タイで撮影された写真は写真集に収められていない。そもそも別テーマ)
・タイで撮影された写真が写美で展示中である(写美は改装中なのでそんなわけない!)
が中心です。

そして勘違いだと思うのが、大橋仁はそれをアートと呼んでいない事。

もしかしたら大橋仁はそれをアートと呼んでいるのかもしれませんが、件のインタビュー記事にはアートとか芸術という言葉は使われていません。
大橋 仁、人類の明るい繁栄のため全財産をはたいて酒池肉林を撮り収める。
このインタビュー記事には”アート”という言葉は出てきますが、自身の写真や写真集をアートだと言っているわけではなくて、むしろ”アート”という言葉を批判的というか、避けたい感じに読めます。

いわゆる”アート”と”写真”は別物だという、(恐らく日本独特の雰囲気)意識が読み取れます。
アートと写真が別物という考えは、美術館での展示を避けてきた篠山紀信を掘り返すとわかりやすいと思います。
日本の写真家で作品を意識的にアートと呼ぶ人を私は知りません。
写真家じゃなくても評論家も思い当たりません。
そんな文章を見かけないのです。

アートを免罪符にしている!という批判がありますが、写真界隈では作品をアートや芸術というような呼び方は恐らく意識的に避けているように感じるので、ちょっと違うと思います。言いたいことはわかるけど、やっぱりちょっと違う。
アートを免罪符にしているのは、作家側というよりも、見る側、受け取る側、批判する側にあるんじゃないかと思います。
そういう所が嫌いなのです。
アートって言葉は、都合のいいように使われているような気がするんです。
向き合っていないというか、安易で薄っぺらいというか。

2014年12月6日土曜日

いまどきのこども

ミスタードーナツでドーナツを食べながらコーヒーを飲んでいたら、店内の小さい子供を二人つれたお母さんが3歳くらいのお兄さんの方を怒っていました。
どうやらスマホに触ったことを怒っているようです。
そんなことで怒るなよ、って思わなくもないですが、落として割ってしまったら修理代もそれなりにかかるし、買い替えとなるかもしれないので、怒るのも無理ない話です。
で、私が3歳くらいの頃、スマホを触って怒られたかというと、そんなことはありませんでした。
スマホがないから。
ガラケーもありません。
家には黒電話があるだけでした。
つまり、スマホを触ろうにも触れません。

今の子供はDSをやり過ぎると怒られることもあるでしょうし、親御さんも怒る必要があるでしょう。
私が小さい頃にDSもないし、ゲームボーイもなかったので怒られようがありませんでした。
小学校の頃にファミコンはありましたので、ファミコンで怒られるってことはあり得ましたが。

コンビニもなかったので、夜遅い時間にコンビニに連れて行かれることもありませんでした。
今はコンビニが沢山あるので、年に一度でも小さい子供をコンビニに連れて行こうものなら、これだからDQNは!と言われかねません。

明治とか江戸時代とか、子供に本なんか見せて!とか言われていたのでしょうか?
あれもこれも便利なおかげで子供は怒られるし、親御さんはそれを制限しなくちゃいけないし大変だなぁと思った、という話でした。

2014年11月14日金曜日

厄年じゃないけど今年は運が悪い年

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最近、色々と不運が重なって嫌な感じです。
今まで生きてきて運が悪いなぁと思うことはあまりなく、むしろ運が良かったと思うことが多いのですが、今回だけは運が悪い気がします。
昔の人は、こういう不運が重なるタイミングを厄年と呼んだのかなぁという気がします。
私は厄年じゃないけど。

小説でも読んで現実逃避したいところですが、「貧すれば鈍する」なのか、小説を読む集中力すらありません。
悪循環とはこういうことなのか、と実感しているところです。
思っていたよりも上手く行っている事もあるので、何かキッカケがあれば悪い循環も良い方向へ向かうかもしれない、と思ってこらえたいです。